日本人のアイデンティティとは。

 結局、東京五輪は開催された。

 ここに至るまでに余りに色々あり過ぎてそれらを一つ一つ取り上げて述べればとてつもない文字数になるので止めておくが、私的に思うことは安倍長期政権の中で国全体のモラルがどんどん低下していき、去年のコロナ禍が始まってからそれが決定的となり国の上から下まで最早正論が通用する世の中でなくなってしまったということだと思う。要するにこの東京五輪が開催されたということ自体が国が壊れたという明確な証左だということだ。これから長く厳しい事後処理が待っているが、失敗を自覚し向上心を持って”まとも”な社会に戻そうという人間が一体どれだけいるか、それだけがとにかく気掛かりだ。このまま日本は無自覚に緩やかな退廃の道を転がり落ちていくという不安が正直どうしても拭い切れない。私自身、日本の市民に対して疑心暗鬼になっているということは偽らざるところではある。

 

 東京五輪に関して思うことの一つに、日本の、日本人のアイデンティティとは何かということがある。一昨日の開会式は私的には観ていないがSNSや報道を見ていて全体像はおぼろげながら把握できたが、総論として”なんだかよく分からない”ということらしい。日本では最近人種や男女の差別的事例が数多く問題となりやたらめったら”多様性”という言葉が取沙汰されてきた。そのことは昨日の聖火リレーの最終走者が大坂なおみ選手だったということからも良く分かる。でも、多様性が日本のアイデンティティなのか?開会式のオープニングはゲーム音楽だった様だが、最近の海外の日本の印象の筆頭に上がるのはアニメやビデオゲームというのは分かるがそれが日本のアイデンティティなのか?2016年のリオ五輪の閉会式で当時の安倍首相がマリオの仮装で出てきたと知った時の強い違和感と落胆を思い出す。私的には日本のアニメは好きだし日本のサブカルチャーとして日本を構成する一要素になっていることは間違いないと思う。でもそれが日本の主軸なのかと言えばそうではないと思う。海外の映画で描かれるステレオタイプな日本の情景を観る度にいつまでこんなデフォルメをされ続けるのだろうと思うのだが、それは日本自体がしっかりとしたアイデンティティを持ち世界に発信してこなかったことに他ならない。

 しかし、では日本の、日本人のアイデンティティは何か?と問われて、私自身考え込んでしまい明確な何かを思い浮かべることができない。これは恐らく私だけに限ったことではないのだと思う。

 歴史を重ねて磨きをかけることで作り上げられていくはずのアイデンティティが今不明瞭となってしまったのは近代の社会の有様、即ち政治や教育の結果であることは疑いようのないことだ。貧富の差を広げモラルを壊し、教育を疎かにし歴史を無視した押しつけの愛国心と道徳観に対する盲信と拒絶が国民の間の溝を深める間に日本民族共有のアイデンティティを醸成する隙は無かったということだろう。

 

 日本人のアイデンティティとは何かを改めて考えてみた。

 まず、アジア人であること。明治時代に脱亜入欧というスローガンが掲げられていたが、アジアは後進でアジア人でいることはコンプレックスでしかないという先入観はいまだに根強い。先進国の定義とは何なのかということを改めて考えた時に欧米の価値観が絶対であるということは無いと思う。アジア人としての自覚を持ち誇りを持ち、毅然と振る舞うことは日本人としてこれからの時代に必要なことだと思う。

  日本は古来”八百万の神”の国であった。身の回りの全てのものに神が宿り大事に扱うという宗教観、道徳があった。今更それを宗教として信ぜよというつもりは更々ない。身の回りの全ての人、物の中に尊重にすべき魂があり大切にするという感性が日本人のアイデンティティの一つになり得るのではないかと思う。多様性は元来日本人に備わっていたはずの感性だと私的には思う。

 更に平和。日本は過去に戦争の過ちを犯し世界で唯一の戦争被爆国となった。この過去の自省と痛切な体験こそ日本人の平和希求の土台としてアイデンティティにしっかりと刻まれるべきではないかと思う。

 そしてもちろん”和”と呼べる文化。衣食住に根差し長い歴史の風雪に耐えた洗練された文化が日本には明確に存在する。個人の嗜好の次元ではなく日本の土台としての文化を尊重し未来に継承する意識は全国民で共有して良いものではないかと思う。

 これらを融合することで日本人のアイデンティティは明確に形成されるのではないかと私的には思う。そして日本人がアイデンティティをしっかりと認識することで世界の中で日本がどう立ち振る舞うべきかを自覚し結果として国際的な日本の立ち位置・役割が明確になっていくのだと思う。

 

 多様性を認めるということは自らの個性を滅することとは違う。人は自らの個性を自覚した上で、他者との違いを認めた上でそれを受け入れて初めて多様性が成立する。先ずは自らを知ることを改めて始める必要があるのではないかと思う。この東京五輪がそのきっかけになるのであれば大きな過ちの中の学びの一つになるかも知れない。

 

 何度も言うがこの東京五輪は本当に酷いものだ。もう二度とこんな五輪を日本でやるべきではないと思う。でももしIOCが淘汰され五輪が理念を取り戻し、日本がまともな国になってしっかりとしたアイデンティティを持つことができたなら、私は日本で五輪が開催されることを望むだろうし、その時の開会式を是非観てみたいと思う。でもそれは私の存命の内にはない。もう叶わぬ夢なのだ。